ツキノワグマ

しなやかな森の住人
ツキノワグマ(食肉目クマ科)

 6月最後の週末、朝7時半。梅雨空を割って少し光が射した。谷のどん詰まり、スギ林横に車を止めて助手席のデジタルカメラに手を伸ばした。先ほど、下流で撮ったばかりのヤマセミの写真をチェックする。
 渓流を横断するワイヤーロープに、3羽のヤマセミを見つけたのだ。どうやら1羽のメスをめぐり、2羽のオスが争っている場面のようだった。飛び去るまでの短い時間で、それなりに撮れたのが嬉しかった。
 液晶画面の写真を順送りしていると、開け放った窓から「バキッ」という、しかし十分に神経を使った断続音が近寄ってきた。その瞬間、確かな予感がした。
 カメラを撮影モードに切り替え、着けたままの望遠レンズを右の窓越しにすばやく突き出した。ファインダーを覗くのと、その四角い視野に黒い影が左へ動くのが同時だった。紛れもなくツキノワグマを、私はレンズにとらえていた。
 相手との距離は20メートル。しかもこちらは車の中。恐怖感はまったく無かった。カメラの設定を考える間もなく、シャッターボタンを押していた。相手はすでにこちらに気付き、大慌てで逃げ出していたからだ。
 3回目のシャッターを切ったところで、ツキノワグマは一瞬こちらを向いたあと視界から消えた。その動きは実にしなやかで、あたりに大型の獣が走り去った気配は無かった。一瞬の足音だけを残し、森はすぐにもとの静寂を取り戻した。
 ツキノワグマによる人身事故が絶えない。彼らが人里に出てくる理由については、すでにいろいろと言われている。猛獣であることには違いないが、私が目の前で見た森の住人は、意外なほど小さく、そしてとても臆病な生き物だった。そんな彼らとうまく折り合って暮らす方法を、私たちはこれからも模索し続けなければならない。
文と写真 NPO法人コウノトリ市民研究所・高橋 信
※2006/8/13(日) 掲載